『日本食文化と神様と』~COLORS~
『色彩のものがたり』
〜COLOR S 〜
[日本食文化と神様と]
曖昧な独り言…
先日 テレビから聴こえてきましたあるお話に私の耳が立ち止まりました。
捕鯨問題…。
地域の人々の声を届けようと
鯨料理専門店の女将が
インタビューを受けていました。
『頭の先から尻尾の先まで
全部無駄のないよう頂いてます』
その 言葉に ふと、
思い出したことは
ある国では、遠い昔に
鯨の脂で石鹸をつくっていたそうですね…。
でも脂を摂るだけ摂ったら
後は全部、棄ててしまっていたのだとか…。
それが事実なら
いたたまれないお話です。
ですが
日本の人々は
どうなのでしょうか…。
この女将のように
恩恵をもたらしてくれる鯨の
命を感謝して
『もったいない』という
日本語そのものに
ふさわしく
ありがたくいただきますの
『こころ』があるのでしょうか…。
動物を食すについては
この地上では
いまはまだ
解決しがたい問題なのでしょう。
人が この地上の管理人として
神がお与えになった権威を
多くの人は
どのようにお考えに
なっていくのでしょうか…。
動物を食す…
エスキモーの民族でしょうか…。
アザラシなどを
生で食べていますが
小さな幼児から
生肉を食べている
映像を目にして
少し 戸惑いましたが、
生のアザラシには
ビタミンやミネラルが
たくさんあるそうですね。
また
その日その日の必要なぶん
無駄がない
命の『いただきます』を
していますね。
馬肉食文化の国…
羊肉食文化の国…
魚の食文化の国…
ペルーではカエルを食とし
カエルジュ−スがあるようですが…
考えただけでも
吐き気がしてしまう私です。
日本の食文化だから…と
聞く度、
思い起こさせることが
私にはあります。
それは
日本食文化の中には
信仰と儀式が
境界線なく
混じり合っていることです。
このことを
深く感じ始めたのは
おかしな話ではありますが…
実は海老の踊り食いをしたとき
でした。(笑)
正直言いますと
怖かったのですが
命を頂くことで
私の肉となり血となり
私の力となるのだからと
言い聞かせて
感謝して…?
ゴクンと
飲み込んだ記憶がありますが
口の中で生きて動く
海老を頂くことで
命を食すという生々しさを
感じた事は
普段の
何気ないそんな出来事から
始まりました。
何かを犠牲にして
私のカラダのために
血となり肉となるとは
私には衝撃な事でした。
噛んだ瞬間
ピクッとするんですものね…。
私が自ら命を頂くために
身を裂かなければいけないのですから
勇気がいりました。
その後、私は神と出逢い
ありふれた日々の中で
神に祈りを捧げていました。
二年ぐらい過ぎた頃でしょうか…
不思議なことに
神は私に
あるひとつのことを
教えて下さったのです。
それは
プライベートの関わりで、
この場所では書き記すことは
出来ないのですが
その神の御業から
私は、食文化と儀式と
霊的な領域を
ひとつひとつではありますが
未熟なる者なりに
考え始めたのてす。
その内容を
ここに書き記しますね…。
神のご計画により
導かれた教会…
その教会の牧師先生の
著書にはこう記されています。
「奈良県桜井市に『三輪山』という
霊山があります。
そこは日本最古の神社と言われ、
『古事記』にも登場し、
その歴史は二千百年以上あると
言われます。
山自体が神体になっており、
山の麓に大神神社と呼ばれる拝殿が
建っているのですが、
本殿はなく、実体は山自体に
あるのです。
この山には許可なく
入山することは出来ず、
入山料を払うなら
参拝目的のみ入ることが
出来るのです。
この三輪山は大物主という
神話に出てくる存在を祀り
その性質は『酒神』です。
そこには全国から
多くの醸造元が名を連ね、
日本酒の代表的銘柄のほとんどが
奉納されています。
さらに日本酒だけでなく、
ビールもワインも奉納されています。
昔から醸造を始める前には
『酒は生き物』という考えに立って
神事が行われ
新酒ができると杉のたまをつるす
習慣があります。
そのもとと
なっているものも
『三輪山信仰』です。
日本酒の原料となる米は
穀霊
『倉稲魂(うがのみたま)と
呼ばれるのですから
そこからできる酒には
更なる霊的意味があるわけです。
そして酒に酔う事は『憑依』
すなわち、神が憑いた
状態を表しているとされています。
神社の祭りに日本酒が
用いられているのは
そのためでもあります。
その他、京都の松尾神社も
醸造神として
有名です。
ここでも全国の醸造元が
集まり祭りが行われています。
『さけ』という言葉自体
『さ』は穀物の霊を表し、
『栄える』が短くなって、
さけとなったと言われています。」
…と。
更に
続けて牧師先生の著書には
また沖縄の泡盛も
すべて霊的領域に関係している事、
それぞれの醸造元は
地域の神社や御岳(うたき)と呼ばれる降霊術の拠点と関わりがあり
醸造開始時と終了時には
祈祷がなされているとあります。
また犬神についても
神様に示されました。
これは
異例ですが
食というものが霊的な領域に
どれだけ深く根付いているのかと
感じられます。
犬神についてですが
飢餓状態の犬の前に
食物を置き、
その首を切り落とすと
頭部は食べ物のことで
頭がいっぱいな犬は
食物に食らいつきます。
その頭部を 焼いて骨とし
器に入れて祀ります。
または犬を戦わせ勝ち残った
一匹の犬に魚を与え
その犬の頭を切り落とし
残った魚を食べるという
儀式があったようですね。
これが本当ならば恐ろしい呪術であり
日本人は、敏感なだけに
選択する目線をひとつ間違えると
このような
食を用いて
悪魔に魂を捧げる事も
あるのですね…。
永久にわが身に憑き
願望を成就させるために…。
また日本の食文化とされる新穀に
関しても
新嘗祭がありますね。
最高責任者である
国を代表して天皇陛下が
その年に収穫した新穀を
神に供えて農作物の収穫を感謝して
自らも召し上がるという祭典であります。
天皇陛下と国民が一体となり
天地自然の神々に感謝するというものです。
食物の大切さと感謝の念は大切な事です。
しかしながら
ここに、私が思うことは
私は
申し訳ないのですが
十字架の神を信じ
私のために命を捨てて下さった神様を信じています。
文化の中にある
食物に対しての
何を食べるとか食べないとかの
領域とは分けて
まずは
供えた食べ物
すなわち十字架の神以外の
神々の力を得たり
一体になるという行いは
知っている事柄に関しては
遠ざけたい者であります。
日本文化だから食べなさいと
言われましても
その捧げた供え物は
どうしても
日本文化だからとひとつにしてしまっては
とても私には
厳しいものがあります。
見えないものだからこそ
困難で繊細な領域である
日本食文化と神々に捧げた
供え物を食し、一体することを拒んだからといって
感謝をしていないわけでも
ありませんし
日本食文化を否定したのでも
ありません。
先ほどのように
人は食により、憑依する
偉大な力を得ると
罪人であるにも関わらず
神になりすまそうと
高慢になり始めたとき
食の中にも
見えない菌の如く
神々と一体となるのですから…。
私は私の愛する神に
聖書をまだ知識として
読みきれてもいない頃
まだ今の愛する教会に
導かれていない頃
私は不安で
祈りました。
すると神はひとつの夢を
お与えになり
それが現実になり
食の中に潜む
見えない霊的な契約があることに
気付かされたのです。
その事で私は知識からではなく
神様の導きで知ることが出来たのです。
ですから、日本食文化と言われる中に
例えばですが
祈願し恵方巻きを
皆様と同じ方向を
向いて無言で食べたりも致しません。(笑)
よく日本食文化だから
受け入れなさいと
クリスチャンは厳しい目線もありますが
食文化と神事の領域を
少し分けて捉えてみる目線も
おかしくないのでは…と
私は思います。
本当に古来から日本の人々も
神に自然に感謝していることも
わかっています。
食べることは
活力になり
喜びであり
よき交わりをも深め
こころもカラダも健やかになれる
大切な事であります。
そのひとつには
十字架の神との交わりで
私は聖餐式をします。
パンと葡萄酒を頂きます。
(正しくはぶどうジュース)
キリストの血潮を忘れないために…。
この聖餐式は奥深いと思っております。
こうお話すると
私も憑依的な儀式を
自分の神でしているではないかと
捉えられがちでしょうが
案外 ある意味
そうなのかも知れませんね…。
ですが
私は自分が神になろうなど
または、偉大な力を受け
御利益を得ようなどとも
思っていません。
自らの能力を誇り
、権力を欲しがり高慢になるための
儀式ではありませんし
また、私は日本の国の全てと一体となり日本の神様とされる天神に感謝を捧げて食する事も出来ない者であります。
だからといって
その神々に感謝する人々の思いを否定したりも
自分が正しい等と主張もしません。
神に畏怖の念を抱く人
心から感謝を捧げる人の気持ちを
大切にしたいと思うほどです。
そっとその人の事を祈るのみです。
私は私の十字架の神の道具となり
神の作品となりたいだけなのです。
『あなたは神の作品であって
よい行いをするために
キリスト イエスにあって造られたのです。』
日本文化の中の
混じりあってしまった色には
そうしてアニミズムの色も混じり
そのうちに
純粋に食を感謝している人々から
不純物のように入り込み
自分の都合により
神々と結びつけてしまったものも
あるようですね…。
曖昧な色に
あなたは気付いてくれるのでしょうか…。
話を戻し、
日本食文化についての
鯨のお話…。
主の祈りのように
『御心が天に成る如く
この地にも成させたまえ。』
と、ありますが、
この地に御国が成らなければ
動物を食す事に関しては
自然界の動物のように
必要なぶんだけ
命を頂くようで良いのでは
ないでしょうか。
むやみやたらに命を奪う事は感謝している人の行いではありません。
動物の知性の問題なら魚は良いのか…
頭が良くなさそうな動物は
食べて良いのか…
鯨は
牛は…羊は…
鶏は…犬は…猫は…虫は…
人食い人種は…えっ?
世界中
尽きない問題ですね…。
ですが私はひとつ思います。
ノアの方舟に乗った動物達は
穏やか争うこともありませんでした。
食べ物が満たされていたと
言われるなら
そうなのかも知れませんが
絵本を見る限り
とても幸せそうです。
夢みがちと言わないで下さいね。
幼児から
思春期の子ども達に訊いてみるのも
どうでしょうね…。
エスキモーの民族が
小さな幼児生肉を与えたのも生きるためです。
生きている命を
目の当たりにしてから
食べる環境があったのなら
子ども達も感謝し、大人が
自分のために与えてくれた
尊い動物の命も
しっかりと
見つめる事となるのではないでしょうか…。
野菜嫌いな子ども達が
自分の育てた野菜を
喜んで美味しいと食べたというお話があるように
自分の五感で神に与えられた命と
『生きる』を信じられた上で
これからを選択していく時代となると良いですね。
いつか御国が成されたら
きっとノアの方舟のように
みんなが穏やかであることを
望んでしまう私です。
日本食文化…
曖昧になった彩り…
どの絵の具と絵の具を
混ぜ合わせたのか
無知だからこそ
もう一度シンプルに
最初に戻して見つめてみたい
そんな気持ちになった午後でした…。
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