【愛という言葉の中に要約①~私のロマ書~
『〜愛という言葉の中に要約〜①』
〜わたしのロマ書〜
12月の独り言
小学二年生になったばかりの頃でした…。
育ての母の親戚から
時々頂き物を
おやつの時間に食べていました。
その頂き物はお煎餅でした。
品名は『平治煎餅』
育ての母は伊勢あたりの方でした。
育ての母には娘が一人いました。
その娘は
伊勢神宮で巫女をしていたとの
事でしたが、そういえば
色白の面長な…
そんな顔立ちをしているかも…と、妙に
幼い私は納得しておりました。
伊勢名物ではないのですが
三重県津市にある
そのような地方名物になる物を
親戚から頂くことが
よくありましたが…
何故か毎回平治煎餅…。
実はこのお煎餅、まだヒトケタの年齢の私の乳歯には
とてつもないほどに
固かった為に、
正直に言えば
おやつに嬉しいと言うには
ほど遠いものでありました。
そんな私に気づいているのか
気づいていないのか…
母は淡々と このお煎餅の由来を毎回語り始めるのでした。
この平治煎餅の平治とは…。
阿漕海岸に暮らす貧しい
漁師の平治。
母と妻子四人で暮らしていましたが、
ある日、母親が病となり
医にかかることも出来ず、
衰弱する母親の為に
栄養のあるヤガラという魚を
獲りに出かけたのでした。
ですが
その魚が獲れる場所は
当時、伊勢神宮のご用禁漁区で
あった為、見付かれば
死刑となるのです。
それでも平治は母親に
その魚を食べさせてあげたかったのです…。
魚を獲りにいった平治…
朝方の海辺で人の気配を感じ、
逃げ帰ったきたときに
大変なミスを犯してしまったのです…。
それは
『平治』と書かれた 笠が
置き忘れていたのです。
それが証拠となり
平治は捕まってしまいました。
しかし平治は潔く 罪を認めました。
その後、平治は阿漕浦沖に
沈められる死刑と罰せられたのでした。
ボリボリボリボリ…
『………』
色の濃い焼けた部分が
苦い味…
平治煎餅を無言で食べて
いる私に
母は
何度も何度も
私にその話しをするため、
いつのまにか
おやつの時間にお煎餅を食べる時は 気持ちは複雑でありました。
そうして
そんな記憶が刻まれたまま
大人になった私に
中学生に成り立ての
十代のカレンさんから
こう言われたのです。
『今日、学校で
あなたならどう考えますか
というお話があって
みんなで考えたのよ』
どんなお話かと思い
彼女の話を聞いてみました。
その内容は
まるで平治と同じように
この世の法にふれて
ひとりの少女が罪を犯すのです。
いたたまれない内容でした。
しかし
その国の王様であるあなたは
少女をどのように
罰するのでしょうか…
その国の在り方は
どうしていきますか…と
いう内容でした。
カレンさんの意見では
これからの事もあり
少女は戒めとして死刑とし
法を見直して
これからは
二度とそのような事が
ないようにする…と言っていました。
私は言葉が
出てきませんでした。
正直 ア然としましたが
何故?…なのか
とりあえず
理由を訊いてみました。
彼女には彼女の考え方が
あるようでした…。
私はその少女を
助けたいと言う気持ち…すなわち
感情が入りましたから…。
ですが 世の中は
掟を破った者が罪なのですから
裁かれてしまうのが この世でも
また
神様との関係でも
そうであるように…
当然の事なのでしょう。
そのような戒めに対して
感情を入れるのは
間違いなのでしょうか…。
律しなければ
この世は混乱が
起きてしまいますものね…。
こういった内容を学校で
取り上げられた事に
感謝だと思います。
様々な意見が
飛び交うのでしょう…。
【置かれた場所で咲きなさい】
の本の
著者である
渡辺和子さんも同じく
学校教育にも
そのような道徳を学ぶ時間があると
良いのではないかと
綴られておりました。
命の尊さを学ぶ
必要があるのです…と…。
ですが罪人が
悪を行わない道に
導かれて行く為には
そのような
妨げになるもの
つまづきになるようなもの
選らばざるおえないような
制度がなくなる事を
ひたすら祈る事は
必要かと思いました。
平治煎餅…
ヒトケタの歳の私には
切なかった…。
幼い私には
何としてでも
見つからないで欲しかったと
思うばかりでした。
どうしたら栄養のある魚や
他に手立てがなかったのかと
未熟な知恵を振り絞りながら
考えたものでした。
ですが
大人になり
今 地上にある権威は
神の赦しのうちにあるならば
意味のない事など
ないと信じ
必ず平和が訪れると
希望の炎を消すことなく
自分の置かれた場所で
出来る事から始めるしかないのだと
思うのです…。
ですが
私は罪人…
肉があります。
いつ私がどの様になるかなんて
解り得ません。
しかし神の国は
飲み食いのことではなく
義と平和と聖霊による喜びの
はずなのです。
そう語っている私ですが
私がもし漁師ならば
同じ事をして
しまったかもしれない…
と思ってしまいます。
平治が海に慣れていて
魚の知識があって
漁師だった為に
浮かんだ最初が
栄養のある
禁じられていた魚だったのでしょう。
一刻を争う母親の容態に
冷静さもなかったでしょう。
平治自身が病なら
きっとそんな魚を
欲しがらなかったはずです。
誰かのために…
そう思っての行動だったのです。
愛するとは
愛しているとは
いったい何でしょう…
私には本当の愛が足りないから
薄っぺらい愛し方しか出来ず
または神を知っていると言いながらも
何故に虚しい愛を
見てしまうのでしょう…。
ですが 神様からの信仰から
出ているものならば
信じた導きを行くなら
決して主はどのような結果にあろうと
無駄にはしないと信じています。
ただこのような出来事に
遭遇し
信仰を持つものにさえ
平治と同じような事が
起きてしまったのなら
私も
あなたも
どうするのでしょうか…。
ただ私が
言えるのは
きっと
主を愛する良心に従うならば
生きるにしても
死ぬにしても
私たちは
愛である主のものなのだということ
それだけは
揺るぎないと信じています。
ですが
まだ
愛である主の存在を知らない人
神を愛していても
信仰が押し潰されそうな人が
平治のような選択をしたとしても
仮に私が
自分は正しい生き方で 清い毎日で
祝福されているから
そんなの自己責任よ
私には関係ないとは
言えないでしょう…。
あなたとは違うの
どんな境遇にも
私には変わらない信仰があるの
なんて
私にはそんな事は言えません…。
なぜなら
私は自分自身が どれ程
弱かったかを
この数年間で悲しいくらいに
気づいたからです…。
私とて同じなのです…。
けれど平治の傍にいたのならば
その魚を獲る思いは捨てて
他の方法を考え
励まし合ったかもしれませんが
平治ひとりが
思い詰めたのかもしれませんね…。
それこそ
主を知ることで
神に祈るとき
彼はどのような答えを
導き頂いていったでしょうか…。
わからない…。
主はかつて
不従順に生きていた私に
憐れみのうちに
ご自身を現したように
また
すべての人に
語りかけて下さるのでしょうから
私のすべき事は
まず生きた供え物に
なることなのでしょう…。
私のロマ書…
どうぞ
私を導き強めて下さい…。
砂の粒ほど細やかに
導きの行方を教えて下さい…。
何故なら
毎日が人生の本番で
過去という名の積木で
土台で積み重ねられて
いくのですから…。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
この記事は
2014 12月に綴ったものとなります。
現在~いま~の私は
その頃よりも移り行くものとなりました。
しかし気がつくと
神様を信じ仰ぎ見
忘れることが
できない者ではあります。
2020年
2月16日の主日礼拝の
ロマ書からの御言は
私を慰めて下さいました。
心より感謝致します。
過去の記事ではありますが
綴り遺していこうと思いました。
何故なら
人は
言葉で生きるからです…。
いまがどの様で在ったとしても…
必ず言葉のままに
存在していこうとするのだと
信じます。
これからもどうぞ
宜しくお願い致します。
~9つの果実~
0コメント